|
8月30日
オリンピックが終わったら気温もぐっと下がって、すっかり秋らしくなってしまいましたね〜
今日、白ブタぶーのパスポートが出来上がりました。
物になればなんとなく、それなりに見えるのでは・・・と期待して見てみると
白ぶでなく、赤ぶに変わっていました。ほんのりピンクのぶ〜。
「記載に間違いがないかどうか今一度よくご確認ください」と言われて、近くのソファに腰掛け
記載欄に目を通す。しかし、写真にばかり目が行ってしまって、ちっとも記載事項に集中出来ない。
むーん、と唸りながら座っていると、後ろに並んでいた人もソファに座って確認作業を始めた。
その後ろの人も座った。交付される人の流れが、窓口→ソファと言う具合になっている。
みんなじっと記載欄を見ているんだけど、どうも誰もが写真ばかり見ているような気がする。
いつも以上の美人に撮ろうとして悲しい努力をした私の個人的事情はさておき、証明写真ってどうしてこうも
本人とかけ離れて出来上がるんだろうかと言う疑問は皆同様に持っているのではないだろうか。
真っ直ぐ前を見て、まじめな顔して撮るだけなのに、いつもと全然違う顔。
免許証と言い、履歴書と言い、気に入る気に入らない以前に全然違う人が写っている事の方が多いはずだ。
しかも絶対その方向性はマイナス方面。これは普遍的な問題に違いない。
パスポートセンターに漂う空気は旅行前のウキウキとした・・・と言うより、なんか違和感の空気。
ついついじーっと見ちゃうよねえ。
パスポートセンターの説明書きには、著しく日常と違う顔の写真はダメと、被り物・長い前髪・厚化粧・
反射メガネ等々のオモシロ写真がずらり並んでいるのだが、それが日常の人はもうそれでいいじゃないか。
ダメですか?じゃあ、せめて白い歯を見せても良いことにしませんかね。
ジャパンのパスポートは、笑顔ばかりだ!なんて素敵じゃん。その方が絶対にいつもと同じ顔だぞ。
どの国のイミグレでも「はい、じゃ笑ってみてください」って言われてにっこり。
「間違いないですね。ミス、あなたの笑顔にハバグットリップ!」
ダメですか?
私ねえ、歯が出てるんで、きちんと前向いてまじめな顔すると2mmくらい歯が見えちゃうんですよ。
だから、「歯見せるな」と言われると、それが例え「笑うな」と言う意味であっても気になってしまって
なんとか歯を隠そうとしてしまう。そうするだけでもう変な筋肉使っちゃうからいつもの顔じゃなくなんの。
悩むわあ・・・・・
あ、いつの間にかまた個人的な事情でしたか。最初っからっすか、そうですか。
普遍的な問題なんて言ってごめんなさい。
|
|
8月23日
旧姓のトラベラーズチェックがかなり残っているので、パスポートを新姓に変えるかどうか
かなり悩んだんだけれど、旅程がかなり長いのが心配でやはり変えておくことに。
名前を変えるだけなら変更追記をしてもらうだけ。
でも、もうパスポートの空きページも少なくて、行き先によってはビザを貼るスペースがぎりぎりだ。
この際新規で更新し直しておくかな。後10年若い顔のまま旅行できるしさ。
そう、気合を入れて、新しい写真を撮らねばならないのだー。
この仕事の行き先では、なんだかんだパスポートを見せる機会が多い。
それに何かのアクシデントがあれば、ニュースにパスポートの写真が出ちゃうかも知れないじゃない?!
タイなんか了承なしに絶対新聞に載せちゃうもんね。「ジャップ!トラックに引かれ死に!」とかさ。
もう死んじゃってるからどうせ了承とれねえけど。
まあまあ、とにかく、少しでもキレイな写真を撮っておいて損はないわけよ。
うちの近所の写真館は、採光も充分のデジカメ撮影。何枚か撮った中から選ばせてくれる。
肌の色がキレイに写るので気に入っているんだけど、ふらっと立ち寄ったその日にいたのはおじいちゃん。
この前免許の更新で撮影した時はお姉さんで「アゴをもう少し下げて、ちょっと右に向いて」とか
いろいろアドバイスをくれた。でも、おじいちゃんは私の顔など、どうでも良いのだ。
座った、と思ったらもう撮り終わっちゃった。写真を選ぼうにも「これでいいよね」とささっと焼いてしまった。
出来上がった写真・・・すんごくキレイな肌色のブサイクがそこにいた。
いやあだあーいやだああー紛れもなく私だけど〜!いやああー。
なので、どこか近くにいい所ないかな〜と探していたんだけど見つからない。
もう時期も時期なので、焦ってきた。
キレイな肌色のブサイクよ・・・よく考えろ、問題は他でもない私の顔だ。
おじいちゃんに問題を摩り替えてはいけないのではないか!
時間をたっぷりかけキレイにお化粧をし、顔筋肉の練習をしてもう一度おじいちゃんの所へ向かった。
チャリンコでお店に近づくと思わず声を挙げそうになった。て、定休日!!!
こっちのテンションは最高潮、首から上だけ余所行きなのにどうしてくれよう〜
どこかに写真館はないか、そのままチャリンコをひるがえし、狂ったように探したが
その曜日は写真屋さんと言う写真屋さんの定休日なのだ! ノーノー!
やっと見つけたのはチェーン店の写真屋さん。いやいや、意外によく写っちゃうかもよ〜なんて
とにかく撮らなくちゃ帰れない気分が間違ったポジティブにギアを入れさせる。で、飛び込んだ。
結果は・・・・顔筋肉の練習の成果は見えたものの、やっぱり基本的に画像が暗い。泥棒風。あー
がっくりと帰宅。なんだか凝り始めたら諦めきれず、またネットサーフィン。
するとうちから程近くに「美白証明写真」が、あるではないか!それもご希望によってはたるみや
シミの修正も可能!これよ、これしかないわー!と電話したら、なんと連休中と!ノーノー!
一日も早くパスポート・・・でも、、、泣いても笑ってもこれで最後にしよう、と待ってみることにした。
お店の休みが明けた日、朝一番の気合乗り込み。化粧もばっちり。
表情の指示もたくさんしてくれる。レフ板を顔にがんがん当てる・・・おお、嫌がおうにも高まる期待!
「優しいお顔で〜はい撮ります!」
で、結果は・・・私は自転車飛ばしすぎて汗びっしょり、鼻の頭のファンデーションがきれいに取れてて
もーんとした鼻の頭の白ブタがそこにいた・・・・。レフ板当てすぎて顔がスパーク、広がっちゃってるよ。
顔の指示はいっぱい出たけど髪の毛までは行き届かなかったのか、のっけズラみたいだ。
チェーン店の黒い顔のと、この白ブタ、どっちがいいか悩みながらそのまま電車に乗って申請所へ。
届出書類をぱぱっと書いて並ぶ。書類を渡す時、うっかり申請コーナーのお姉さんにこれらの
お悩み写真を全種渡してしまった。
そしたらお姉さん「えーっとどれにしましょうかね、これ!一番明るいのにしましょう」と白ブタをチョイス。
神の選びたもうた写真だ・・・と心が言った。
顔が悪いのは知ってるが、ちょっとだけ本人よりかわいい写真で10年いたかったのに。
10年後、こんな白ブタぶーの写真を見て「まあ、かわいい時代があったのね」と言わないように
いっそう精進してまいります。早く10年経て。
|
|
8月18日
どーも・・・まだみんなPCの前には戻っていない気がする今日この頃・・・・
パソコンからテレパシーが送られてこない。
アップするのもオーディエンスがいないと張り切れないのー。
ただの怠け癖?
お盆休みにあたる先週はとっかえひっかえ友達が来ていて、連日連夜大騒ぎ。
オリンピックが始まってからはみんなでテレビにかじりつき。
うちのテレビ壊れてるからさー、つけたてだとびろんびろんすんのよ。
軽く叩くと直るんだけどね(昭和初期かよ)。コツを掴もうとみんなでバンバン叩いてさー。かわいそうに。
今日やっと一人の夜です。したらテレビの機嫌もいい。反抗期だったのかな。
と、言う事でちょこっとだけセール品を出しました。
|
|
8月11日
追記っす。
6日のこじについてライターの友達と話す機会があり、「当事者じゃない人間が、当事者ではないのに
その問題にこだわってしまって更にそれを書こうと思うなら、当事者ではない松本さんのどこかに
当事者性があるんじゃないの?」と言われた。当事者ではない私の私による勝手な当事者性。
「本当に書きたかったのはそれなんじゃない?」なるほど。
一人で何かを書くのはとても難しい。自分で自分に問い、答えを出していくことの困難さよ・・・。
誰かと話をすると、自分の言いたかったことに割と近い感じを伝える事が出来るし、緩いところを
締めてもらえたりもするんだけど、自問自答はしんどい。ま、自問自答だから小事争論なんだけどさ。
誰もが知っている事件や歴史的な事実、それも誰かが酷く傷つけられた事について
当事者でない私がどれだけ深く考えたつもりであっても、そして何かしらの結論に行き着いたと思っても
字を並べてみればそれはあまりにも月並みで、陳腐な言葉となってしまう。
「世界平和」だとか「戦争反対」だとか。実感を字に出来なければ誰のところにも届かない。
「原爆」を書こうと思ったのは「私が日本に生まれた」からだ、と
そして「普通に生きている私達が、その事をもっと語るべきだ」と、6日に私は書いていた。
確かにそれだけではまったくもって陳腐だ。そこに行き着いた経緯をもっときちんと書くべきだった。
例えば買い付けに出ると、いろんな国の人と話す機会が多い。
ニューヨークでテロが起き、それがアフガニスタンの戦闘に繋がっていった時なんかは
「日本はどうするの?原爆も落とされてるし、アメリカには酷い目に合わされてるじゃない。
なんで日本はそんなにアメリカ支持なの?ベトナムと同じ気持ちじゃないの?」と
タクシーの運ちゃんからもそんな話題が出る。
外国人と話をする時、私が好むと好まざるとに関わらず私は日本の国旗を背負って話すことになる。
日本人と言うだけで、日本について語る事を許された最も日本に近い人間となる。
問いかけた誰もが私を抑圧してる訳ではないのだから、「よく知らない」と言って逃げる事だって可能だ。
でも、私はそこで稚拙ながらもなるべくきちんと話をしたいと思っている。
多くの人は、たまたま出会った人によって、その人の国のイメージを簡単に作り上げてしまい、
その国を好きになったり嫌いになったりしてしまうように、私の意見もおおよそこの偏った私と言う個体差を
無視されて「ある一人の日本人の意見」と言うより、「日本人全体の意見」として受け取られるだろう。
だからと言って日本の皆さんに遠慮して大きく括った私の中の「日本人像」をそこで話してみたところで、
そんなの本気じゃないから面白くもないし、結局自分の意見を話すより他なくなるわけだけれど、
当事者ではないわけだから実感を伝えることは難しい。
そんな時、先生から「で、感想は?」と聞かれた時のことを思い出す。
「感想」という言葉は今でも表現が違っていると思うけれど、私の中で消化できなかった何かを
言い当てられた言葉として、ずっと心に残っているのだ。
しかし外国人と向き合った時には、この当事者ではないと言う後ろめたさを一度手放すことが出来る。
むしろ一番当事者に近い私が語り、怒らねばらならぬ、と日本に生まれた人間としてのある種使命のような
感覚すら生まれるのだ。ニュースや教科書のように語るのではなく、自分の感覚に嘘をつかずに話してみよう
とする時、私は「日本の子供」になる。じいちゃんやばあちゃんの孫として、おとったんやおかやんの子供として
話す事なら出来る。フィクションを作り上げて、自分のじいちゃんやばあちゃんが被爆したと語るのではないよ。
日本に生まれて生かされてきた自分と言う不思議な偶然は、あの日生きていた人々と確実に繋がっている、
だから語っていい、言う「スタンス」が降りて来ると言うこと。
歴史がぶつ切りにされて過去に起きた事がまったく現在と繋がっている感じがしない、と言うそんな感じが、
「普通に生きたおじいちゃんやおばあちゃん」を辿って繋がっていく、そんな感じだ。
日本じゃない国と向き合うことでちょっと風穴の開いた「日本」という小さな接点をもう少し拡大して
私は先生の言い当てた消化しきれていない何かを、もう一度考えてみる。
「国籍を背負っていない私」の思いをたぐりよせてみる。
私が感じたのは、日本で生まれた事と、それから「普通に生きた」おじいちゃんやおばあちゃんに
続いていく流れだった。あの人もこの人も私もみんな普通の人だったと言う事は大きな接点だ。
その日の朝、悲しい目に遭った人達は、割烹着をつけて朝の支度をするお母さんだったり、
寝坊して布団に入っていたお姉ちゃんだったり、忘れ物を取りに帰る坊主だったり、
仕事へ出て行くお父さんだったのだ。今もなお自分の身に起きた事がどんな事だったのか、
化学的に説明されても医学的に説明されても応えを出すことが出来きず悩んでいる。
「いろいろ質問されたけど、自分の事なのに勉強不足で答えられん事が多くて恥ずかしかったです」
と言うおばあちゃんの証言を聞いて思う。普通って言うのはそう言うことだよ。
誰も生き証人になりたくてなったのではない。評論家ではないのだから、自分の身に起きた事だって
深く理解し要領よく語ることなんてこと出来はしない。
そう言えば昨年、癌で死んだ私の叔父も、あの後家族を探しに広島に入り二次被爆に遭っているが、
原爆手帳も持ってなかったし、具合が悪くても風邪だと思っていただろうと思う。
火葬してみると骨はほとんどなかったそうだ。それは癌の治療でそうなったのかもしれないが、
母さちこは原爆のせいじゃないかと呟いていた。
文頭が「そう言えば」で始まってしまうぐらい、私にとっても親戚一同にとっても「被爆してる」と言う事実を
感じさせない、ただただリアルに囲まれた普通の人だった。
体はずっと弱かったが、自分の生き難さとその事件を繋げる発想もなく応急処置しながら生きた。
酒を飲み借金を作り女房と喧嘩し、そっちメインの波乱万丈ライフを全うしたのだ。 そんな風に被爆者の全てが思慮深く、意識が高く、崇高に生きているわけではない。
あの日の割烹着のおかやんも、今生きてるエプロンおばあちゃんも、ジーパンにTシャツを着てユニクロで
買い物している私達も寸分たがわず、平凡な生活をいとおしむ事すら忘れがちな平凡な人達だ。
平凡な人達が、平凡な人々の気持ちを一番わかるんじゃないのか。
当事者じゃないけど以外に近しい人達なのかもよ。それに当事者ではないと言う事で語ることを
避けてしまっては、あと数十年で語る権利を持つ人はついに誰もいなくなってしまう。
引き継いで語る事を、毎年決まった日にだけ流されるニュースやジャーナリストや運動家ばかりに
お任せしていては、戦争被害者はどこかシンボリックな存在に祀り上げられてしまい、
その事実の中で生きていた「平凡感覚」はずれていってしまうんじゃないかと思う。
当事者でもないうえに、知ってる事実が多少間違っていて、結局シンボリックにしか話せなかったとしても、
その話題がニュースからではなくて夕べの支度をするお母さんや、休みの日に何処にいたらいいのか
わからん父さんから聞いた方がずっと身近だし、素敵だし、大事なことのように思うのだ。
家族が語ってくれる物語だから、その子の歴史となって言葉が残り、やがてその子が社会的な問題を
考えるうえでの力となるかも知れない。その子独自の当事者性になるかも知れない。
普通の人達が普通に語り続ける、普通の人達に起きた普通じゃないお話は、きっと静かに強い。
外国人にはあまり「当事者性」だのうんだのかんだの悩まずに、のびのびと語る人が多いように思う。
それは、当事者と繋がる何か「愛国心」とか「宗教」なんかを持っているからだろう。
そんなものがないからか日本人の私は悩むのかもしれないし、日本人ならではの奥ゆかしさで、
知ったかぶっちゃいけない、何様と思われるのが怖いと思っているのかも知れない、と思うが、
たかだか59年経ったくらいで、その大事件を皆で忘れて「日本の子供」がなんにも知らないまま大人に
なるって事を奥ゆかしいだなんて、ちょっと言ってらんなくなってきたと思うのだ。
それこそ、私達はその問題を作り出してる当事者なんじゃないのかな、と。
てな事を言いたかったんですが、、、、まだちゃんと言えてないかもなあ・・・(T-T
井上ひさしの戯曲を例に挙げたのは、ちょっとお芝居が説明的過ぎるなあと思ったものの
「ライトにヘビーに語り継ぐ」って事の難しさに挑戦していたその意気は買いだと思ったのです。
で、ご紹介したのでした。
追記の方がなげえ。
|
|
8月6日
「あんときの広島では死ぬるんが自然で、生きのこるんが不自然なことやったんじゃ。
そいじゃけえ、うちが生きとるんはおかしい。うちゃあ生きとるんが申し訳のうてならん。
じゃけんど死ぬ勇気もなーです」
先月、例のおばば大集合演劇鑑賞会で、井上ひさしの戯曲「父と暮らせば」を観た。
大切な人をすべて原爆で失い一人きりであれから3年生きた娘。
生き残ったことに贖罪感を覚え、幸せを拒絶する娘の話だ。
幸せになってはいけん、でも、娘は恋に落ちてしまう。
いっそう暗い話のようであるが、実はこれコメディーなのだ。
娘が放った恋のため息と共に、死んだおとったんが出現する。娘とおとったんのふたり芝居だ。
娘の恋を応援し、諭し、語り、笑わせるおとったんは、呑気で賑やかでかわいらしい。
楽しい会話が続くがしかし、このおとったんもあの日に死んでしまった人だ。
娘は心に蓋をしていたが、やがておとったんの死に様を思い出してしまう。
「その話の決着なら、とうの昔についとるで」
回想として語られる二人の別れの場面は、今までの笑いを助走にあまりにも悲しい。
倒壊した家屋に組み敷かれたおとったんを助け出そうと娘は手を尽くすが、やがて四方で火の手が上がる。
「ちゃんぽんげで決めよう」 じゃんけんに勝ったらお前は逃げろ。
おとったんがグーしか出さない事を娘は知っている。小さな時からそうやっていつも勝たせてくれたのだ。
そうやって、娘は生き、おとったんは死んだ。
なるたけ静かに生き、早めに消える・・・と自分に命じて生きている娘に、
おとったんは生き残った意味を問う。幸せの意味を問う。
「おまえはわしによって生かされとる」
どれだけの人が、こんな風にあの日死んでいった人ともう一度語りたい、暮らしたいと思った事だろう。
しかし、井上ひさし曰く、戯曲にするために一人二役を劇場の機知を用いて二役にしたと言う。
「いましめる娘」「幸せを願う娘」の「願う娘」を父に演じさせたと言うのだ。
つまり父は娘の心の中の幻影。娘の心の葛藤、分裂を二人一役で描いたのだ。
死者と出会えた、と言う話ではない。その手法の素晴らしさにしびれもするが、話の中に浸って思えば
少し淋しい。そしてまた、心で父を生み出してしまった娘の悲しさを思わずにはいられない。
生かされている意味、それは生きて語ること---それも娘が自分で導き出した答えという事だ。
Yahooニュースに原爆資料館が1971年出版「広島原爆戦災誌」をインターネット上で公開するとあった。
「広島原爆戦災誌は原爆被害の実態を詳細に記す一級の資料で、全5巻計約4000ページ。
広島市の古書店での価格は3万−4万円といい、入手が難しい。」との事で公式HPに行ってみた。
HPは物凄い情報量だ。読み進むうちに祈るような気持ちになる。
それと同時に、やっぱりここに「原爆」についてのあれこれは書けないと思った。
いつだってそうなる。小学校からずーっとだ。
何が喉を詰まらせるかと言うと、私が当事者ではないということだ。知ったかぶりをするな、と自分に思う。
原爆写真館へ行っても、研究発表をしても「で、感想は?そこが一番大事なんだよ」と先生は言った。
でも、感想なんてなかったのだ。感想なんて言えないよ。もうちょと私がおませだったら
「感想という言葉が私の心境と一番かけ離れています」と言えただろうに。
「原爆」と言う二文字が重過ぎる。
本当はお芝居を観た後に、その話をしたかったのだが書けずに先月一度書くのをやめた。
で、今もう一度書き直している。
悩んでいるうちにひとつ、当事者と繋がるこよりを見つけたのだ。
私が日本に生まれたと言うことだ。
この戯曲自体にも当事者が語り継ぐ事の困難を随所に書き込んでいる。
思い出したくない事を使命感だけで語る事は出来ない。あの日のことを語るのは、その当事者の生きる意味と
繋がって語られているのだ。告白はどれも血まみれだ。
娘は幸せの意味を追い、生き、証言する事を決めた。
美しい広島弁「おとったん、ありがとありました」と二度目の別れをする。
その娘、当事者の平均年齢もすでに70代になるだろう。語り部は年々少なくなっていく。
語ってくれた事に、私達が感謝するより先に消えていく。
私達の世代は戦争も原爆も知らないが、お母さんやおばあちゃんから聞いた昔話のように、
それをもっとたくさん語っていいのではないだろうか。日本に生まれた子供なのだから。
ジャーナリストでもない、評論家でもない、普通の私達が語るって事がいい。大事なのだ。
悲しい誰かが語り残し、物語が作られるのは、それを供養として思い出す為の物ではない。
常に未来のためにあるのではないか。
アメリカ人がこの歴史的惨事を知らないとイライラする。他外国人が知らないとがっかりする。
しかし、日本のヤングや子供が知らないとなると、それらと比べようもないくらい腹が立つ。
おばあちゃんから聞いたことをちゃんと自分の子に伝えられなかったなんて
私達は「日本の子供の名折れ」だ!そうじゃない?
「父と暮らせば」は、宮沢りえ主演で映画になります。
映画ではどうなるのか、楽しみです。
|
|
8月6日
おしさしぶりぶり。
何をしていたわけでもないのですが、買い付けのチケットを取ろうと奮闘していましたらば、
こんなに時間がたってしまいました。
今年は例年以上に遅い出発、えーんど長いお休みになりそうです。
でも、結局まだはっきりせず。なんとかしばければ〜
早い夏休みの方も多いのかもしれませんね。
今週に入ってからお客様からのメールがぐんと減りました。
近所の子供達もキャンプへ行ったり、プールへ行ったりと忙しそう。
私もどっかへ行きてえなあー。
と、夏らしいぼやきを発しながら、心を入れ替え仕事をします。ええ。
|
|