密教とヒンドゥー。神々の住むネパールと
相変わらずのベトナム・・・。



第6回 ベトナム・ネパール・タイの巻


 9月16日(日)買い付け前々日 言いわけ太郎

まったく、こんな仕事でなければ考えなくても済んだって事はよくあるが、今回のアメリカで起きたテロ事件くらい、
飛行機を利用する人達を怖がらせたことはないと思う。実際、私の乗る飛行機はとりあえずバンコクへ、
そしてその数時間後ホーチミン、そしてまたバンコクへ戻って次はカトマンズ。今度はカトマンズからまたバンコク。
つまりバンコクを中心にあっちへ行ったり、こっちへ行ったりするのでさほど問題はないように思われる。
しかし、まだテロから日が浅く、日々アメリカから悲しい映像と「やるぞ、やるぞー」とメッセージが届いている。
恐らく始まったら最後、3度目の世界大戦になるであろうと誰もが思い始めていた。
出先でそうなったら、どうなるの?、さっぱりわからない。
さっぱりわからないから不安も漠然としていて、怖がっていることすらバカバカしいって気になったり、
二度とダーに会えないかも、と悲しくなったり、冷静に考えれば何もこんな時期にどっかへ行かなくたって
いいんではないか、しかし、更に冷静に考えればその考え方はパニクっているんではないか?
などいろいろ考えたりした。

とにかく、行きたいか、行きたくないかって事で良いと思うんだけど、それを言うなら、私は毎日家から出たくない。
ああ、行徳公園がホーチミンだったらいいのに。
まあ、いろいろ考えたところで、ルート的にまったく問題がないのでうまくやめる理由が見つからない。
今回のチケットは友人のエージェントで手配して貰った物だった。
その旅行会社の友人自身がオフでネパールへ行くというので、一緒にとって貰った。
そしたら他にも参加すると言う互いの友人もいて、全部で4人。荷物持ってくれる人も4人?わくわく。
さながらテロ前は修学旅行気分だったのに。深夜、旅行会社の友人ふみちゃんから電話が入った。
旅行会社には、顧客の安全確保のため早く現地の情報が入る。
もともとネパールでは我々の到着日に合わせたかのようにマオイストの集会があり、
外出禁止令の出る可能性があった。流れ弾に注意、なんて現地のコメントもあった。
他にもテロに便乗したような怪しいイタズラがあったりして、雰囲気はまずまず最悪。
彼女の電話は、そう言った訳で危険勧告がレベル2まで行くかも知れない、といったものだった。
とにかく買い付けが出来なければ、危険を冒してネパールにはいる意味がない。
もし、ネパールに入っても避難しているだけだったら、行ったって意味がないのだ。
そういえば、このところどうも人に会う。今回の買い付けが決まってから10年ぶりの友人にばったり会ったり、
いつも飲みに行く連中にもほとんど会い尽くした。お世話になった人にも何かと会う機会が多く、
葬式で親戚にも全部会った。とにかく会わなくていい人にまで会いきったのだ。
もちろん、わざわざそうした訳じゃなくて、気が付くとそうなっていたのだから、
それってお別れ完了って事なのかしら・・・。それに自分自身がいつもの買い付けの時より、
かなりナーバスになっていて、買い付けの計画を思い描くと眠れなくなってしまう。
昨日の晩も結局一睡も出来なかったのだ、「なになに予感じゃない?、予感じゃない?」きゃー。
なーんて話をし始めると、まるでお化けの話をしているみたいに空気が冷えてくる。鳥肌ぼー。
それに心配なのはタイだ。
あれだけ世界の飛行機が乗り入れている空港はテロにしても何にしても便利に決まっている。
シンガポールもその事をかなり懸念しているようだが、タイや日本も全く同様なわけだ。
もしかしたら、ネパールよりもタイや日本の方が危ないのかも。こんな時は何処にいても同じ。
運命からは逃げられっこないのだけれど、予測し、ジャッジ出来る状況と情報を前にして、
こんな時にわざわざ愛する人達のもとを離れて雑貨を買いに行く程私は仕事が好きなのか?!
答えは・・・今回の買い付けは延期じゃ!


 9月17日(日)買い付け前日マオってば

朝電話で起こされる。電話は昨日さんざっぱら怖い話をしたふみちゃん。
なんと、ネパールでのマオイストの集会は中止に・・・と言う連絡、ってことは、外出禁止令も出ないわけです。
怖い想像は「それに加えて」という話だったんだから、90%くらい行っても大丈夫な感じになってしまった。
テロとは関係なく、買い付けのことで緊張して眠れない日が続いていたが、昨夜は中止が決まったもんで
すっかりよく眠ってしまった。のに。なんだ!騙された気分。途中でやめていた荷造りを急いで再開。
ひゃー大変だ。
明日はベトナム?なんだか不思議な気分。

 9月18日(月)HCMC到着

と、言うことで、
形にならない心配を胸に、でもタイ航空の機内食にうっとりしながら、夜にはホーチミンに到着した。
相変わらず空港ではタクシードライバーの客引きが激しい。
もう日はすっかり暮れていたので、ケチるよりもトラブルを回避するべく、そこそこの値段で乗る事にする。
運転手のおっちゃんは、結構英語が喋れる方で、いやあ、あのテロには驚いたねえ、とさっそくテロの話になった。
「今ベトナムではどんな感じ?ベトナム人はどう思ってる?」と聞くと
「何にも関係ないよ。だからベトナムにいた方が良いよ」と笑った。おっちゃんは、
「日本はなんでアメリカの応援をするんだ?日本はアメリカから広島・長崎に原爆を落とされているから、
ベトナムと同じだと思ってた。でも、日本はもう忘れてしまったの?」と言った。
「日本にもいろんな考え方の人がいるから、何とも言えないけど、私は戦争が嫌いだわ。荷担も参加もして欲しくないし」と言うと、また笑いながら「ベトナムはもうごめんだから、ここでは何も起きないよ。」と言った。
来るたびに、街は明るくなり、新しい建物が増えている。観光客も増加し続けている。
そんな発展し続けるホーチミンなのだが、時々私はとても悲しくなることがあるのだ。
かつて日本にもあった懐かしい路地の風景や、明るい人々の笑い声の中にもまだ、ふと血の匂いがするときがある。
ベトナム人自体は、ベトナムイコールベトナム戦争、と考えるのはそろそろやめにしてよ、と思っているという。
確かに、夢のあるイメージではないが、実際にはまだ深い楔を打ち込まれていると思う。
「戦争は好きじゃない」と私が言った。おっちゃんも言った。同じ言葉でもその重さは違いすぎる。
おっちゃんの世代は生き延びてここにいる人達だ。おっちゃんだけじゃない、私と同じ世代の人から上は
あの凄惨な時を生き延びたまさに実体だ。誰の歴史の中にも避けがたくその痕跡がある。
そんなもんだから、戦争が嫌い、とおっちゃんに言われると、それが笑いながらでもかなりしびれる。
私の言葉が軽く聞こえたとしても、それでも私は、私も戦争が嫌いだとおっちゃんに伝える。
つたない言葉を越えて、思っていることを伝えたいとお互い思っている、と言う事が車内の空気を柔らかくする。
私たちは笑いながら理想的な事を話し続ける。そうやっておちゃんが笑って話してくれることに救われるけど、
どこかその笑いには冷めたところもあって、ただのタクシードライバーと、観光客の姉ちゃんの意見では、
何も変わらないって事をよく知っていて、それを笑っているようにも思える。
約束の金額を支払ってタクシーから降りると、宿の入り口にハンちゃんがいた。これから長い仕事が始まる。

 9月19日(火)〜21日(木)雨のHCMC

ベトナムの滞在については、今更変わったことも起きない。いつもハンちゃんがいるので何処に行くにも危ないこともなければ(バイクで転ばない限りね)おかしなトラブルも起きない。
生地を探して、デザインの検討をして、市場を回って、ごはんを食べる。その繰り返し。
面白くもないが、安定していて安心もする。すでに実家のような気分。
心に波立つものもなく最終日、ほとんどの仕事をやり終えて、ウィンドーショッピングをしていると横にいた白人青年が突然大きな声を上げた、飛び退いてそっちを見ると、ぼろぼろの松葉杖をついた片足の男の子が怒鳴られている。
ハンちゃんが私の耳元で「Pick pocket」スリだ、と囁いた。
男の子は白人青年のお尻のポケットに見えているお財布に手を出したのだ。
おずおずと男の子は後退するが、白人の激しい叱責が飛ぶ。その言葉はあまりにも酷い。
例えば彼がまんまとそのお財布を手にすることが出来たとして、走って逃げることは出来ない。
どうせすぐに捕まってしまうことは一目瞭然だ。
にじり寄る白人青年と、ふわふわ、ぼんやりした視線で後退する男の子を見ていたら、とても胸が詰まった。
男の子の目は本当にぼんやりうつろで(薬じゃないと思う)、何が起きているのかよく理解できていない感じだ。
何となくするすると手だ伸びたんだろう。そんな気がしてならない。
犯罪が頻発する都会のホーチミンでは、スリなんて日常茶飯事。
警戒心のない日本人がもしすられても、ケガをしなくて良かった、死ななくて良かったと思って丁度良いくらい犯罪はどんどん凶悪化している。
もし、この愚鈍なスリに遭遇したのが日本人だったら、どうだろう。
「うわー」とか「キャー」とか言ってその手をはねのけて「やめろ・・・」と言うのが精一杯じゃないだろうか。相手はナイフも持っていない。追いかけても来られない。日本人は驚き焦りそそくさと、そこを立ち去るんじゃないだろうか。甘くて、度胸がない。私だったらそうだ。
その白人青年のマッチョで大きな体から思いっきり発せられる罵倒の言葉は「わからせてやる!」と言っているようだ。
何を・・・と言えば、「俺とお前の差」だよ。二度と出来ないようにとっちめてやる!
とばかりのその烈火は、まさにメタレベルからの、相手を押しつぶすような怒りだ。
その怒りには、怒り以上の何かいやらしさを感じざるをえなかった。
私は全ての白人種が差別的だ、と言っているのではない。でも、私はアジア人、黄色人種だから時々その空気を感じ取ってしまうことがある。旅で出会う多くの白人達はとても気さくで楽しいし、いい人達だ。助けて貰うこともたくさんあるし、離れがたく仲良くなることもある。だから全てをひとくくりにはしたくない。いつも仲良く、快くすれ違っていきたいと思っている。
でも、一部の人達の何気ない仕草や行動から、心底驚かされることがあるのも事実。
それは、やっぱり差別されたことのない人種だからだとしか思えない感性だ。
今から10年くらい前のバンコクで、まだ所々スラム化した居住区がある頃の事。観光でその辺りを歩いていた私は、そのバラックを背景に記念撮影をする白人のおばちゃん集団を見て、すごく不快に思ったことがある。
ボロ屋に乗せて干している洗濯物、開けっ放しの扉、ぐちゃぐちゃの道、ぼーっと立っているおっちゃん。その横でピースしながら写真を撮っている。もちろん、写真を撮らせていただいてよろしいですか?なんて聞いてはいない。それからその家々を何かの風景写真を撮るように、パチパチ。ここは、観光地なのか?と非常に非常にむかついた。

スリをしようとした子は恐らくカンボジアから流れてきた子だろう。
食い詰めてカンボジアから流れてくる人々は相変わらず増えている。悪いのはスリをした方。
当然の事だ。怒ってはねつける。それも正しい。
だけど、その光景はあまりにも激しくて、つい泣きそうになるのを私は我慢した。
そんな風に一気に瞬時に相手を叩きのめす、という事が出来ない国民性、おどおどするばかりの気弱な日本人を想像したとき、なんだかとても愛おしく思えた。もちろんケースバイケース、それで殺されてしまう事もある、と解ってはいるんだけどね。
雨季のホーチミンは夕方になると激しい雨がよく降った。
どんどん水が流れて、道が綺麗になって行くみたいで気持ちがいい。気温もぐんと下がる。
そう思う私には何処に行っても屋根があるけど、今日も屋根のないたくさんの人達がどこかの軒下で時間をやり過ごしてる。雨は畑にも、メコン川にも流れ込んで、恵みをもたらしたり破壊をもたらしたりしながらいつものように、お構いなしに降り続ける。
本当に少しずつ、ゆっくりゆっくりで良いから、良い方向に向かっているのであって欲しい。
何がどうっていうんじゃないが。


 9月22日(金)リバーサイドホテル

 ゆっくりお目覚めして朝食をとり、発送の手はずなどを再確認、ハンちゃんはに少数民族物のロスト(ベトナム国内で行方不明)を補充して貰うためハノイへ飛んで貰う事にする。じゃあね!と飛行機に乗り、いざ!バンコクへ。
いざ!とはいえ、翌朝はネパールなので出来れば空港周辺から動きたくなかった。出発前にガタガタしていたので、ホテルとかなーんの手配もしていない。とりあえず、空港周辺のゲストハウスに行ってみることにした。
宿の少ない空港周辺でゲストハウスと言ったらここぐらいだから、知っている人も多いと思う。
実はわたくし、すごーいすっごーい、方向音痴なのです。そのG.Hの地図を見るといかにも近い。
でもアマリエアポートホテルの裏、裏って・・・っていう位置はかなり微妙だよ、私には。
これまでも何度か利用したい距離と値段だったんだけど、行き着く自信がなく敬遠していた。
しかし、日もまだ高いし、いよいよ行ってみるか、とアマリエアポートホテルから下階へ下りて裏へ回ってみた。
案の定、行くべき道の反対からスタートしてその巨大なホテルを一周しそうになり慌てて回れ右。
今来た道を戻りそのうち行き過ぎて、そのG.Hの「こちら」看板を発見する。
人一人と半分くらいが通れるくねくねし細くておしっこくさーい路地を行くと、もう目一杯の道幅をバイクが暴走してくる。相手もびっくりしているみたいだ。でもびっくりしたかしないか、ヒヤッと思うと同時に通り過ぎてる。それがまた何台も続く。少し死を覚悟。死ぬのを我慢して歩いているとやっと道を抜け川に出た。
川沿いに歩くと看板が見える。看板の裏にはまた細い路地がある。細くて真っ暗だ。
日射しの激しさが陰をよりいっそう濃くしているみたいに、真っ暗。
この川のほとり(もしくは川の上とも言う)の真っ暗な路地、その向こうにお宿が見える。ひるんだらイカン。
入り口の周りには良い若いもんが数人ゴロゴロと寝ている。「部屋、空いてる?」と聞いてもだいぶ反応がない、そのうちのっそーと一人素敵な入墨の青年が起きあがって、こっちへどうぞ、と手招きした。靴を脱いで更に暗い建物内へ。
浮かび上がる子供のマネキン人形(首に縄付き)はディスプレイか。ロビーというか共用部を抜けると階段がある。
そこから2階が貸部屋だ。狭い階段にはインド人の家族が5.6人どろどろと寝たり、座ったりしていた。
「ナマステ〜」家族でここに泊まっているのかな。私が部屋を見せて貰っていると、家族もみんな一緒に見てた。
部屋は狭くもなく、広くもない。窓の外は川。エアコンなんて当然ないが、悲しいかなファンが壊れていて、
天井から電線だけがびろーんとしている。うーううんこりゃあ、暑いぜよー。トイレとシャワーは共同。
ドアの鍵は無いに等しい。さて、どうしようか・・・。
武勇伝に泊まってみたい気分も持ち上がる。ああ、久々にバックパッカー魂に火を付けられる物件だぜ。
しかし、落ち着いて考えろ今の私!腹帯の中に大金を入れて泊まるにはどうか。
誰を疑っているわけじゃないが、何かあったらきっと疑ってしまうし、疑ったって何したってこの寂しい場所で何かあったら、そこを選んだ私が一番悪いわ。
お泊まり帳を開く青年に「トイレとシャワーが付いている部屋が良かったの。悪いんだけど・・・」と言うと青年は、何故か恥ずかしそうに「あっちだよ」と指さした。トイレに行きたい、と言ったと思ったようだったので慌てて「違うの、部屋にシャワーとトイレが欲しかったの、だけど」ともう一度言った。それなら残念だけどここにはないよ、と私たちは階段を下りた。靴を履いて外へ。
しばらくするとさっきの青年が追いかけてくる。あれれ、引き戻しにかかるかな?と思ったら、「近道はこっちだよ!」と例のくねくね道に行かないですむ方法を教えてくれた。「コップンカー!」そしてまた空港へ逆戻り。
こうなったら、ずいぶん使ったことのない「空港ホテル案内」へ行ってみるか。「1000バーツくらいまでならなんとか。
空港のなるべく近くに」とカウンターで言うと、スタッフ全員から「とんでもなーい!」と叫ばれた。
普通だったら3000〜4000の所を、ディスカウントで2000が精一杯だという。空港周辺は高いのよ〜と。
高いのは解っていたが、そんなに高いとは・・・。日本の代理店だって、ネットでタイの代理店見たってそれ程まで高くはなかったから、空港でもそれの1割り増しくらいかと思っていた。
ああ私は馬鹿だった。そこの値段表を見る限り、今や日本の代理店に頼んだ方が全然安い。
現地調達時代も終わりやなあ。とにかく1泊眠れればいいのだから、一番安いところに決めた。それでも1500バーツ。くう悔しい・・・。
それも自動的にリムジンタクシーも手配され、5分くらいの道のりに200バーツも払う事になってた。
帰りは空港まで送ってくれるのだから・・・朝食は付いてるのだから・・・と自分を慰めつつタクシーに乗車。ああ・・・疲れた・・・・・・・。そこへ聞こえてきたのはブリリアントグリーン、ドリカム、スピッツ、マイリトルラバー、運転手さんが私のためにテープを変えてくれたんだ。少し前の曲なので、最新に弱い私でも歌える。大合唱しているうちに到着した。
そこはジャンボホテルをやくしてジャンボテル。
中華系のホテルだ。ジャンボテルだけどそんなにジャンボじゃない。
ずらーっと並んだ空客室。人気のない中級ホテルによくある不気味な光景だ。なになに贅沢は言っていられない。
部屋には電話もあるし、近くには屋台もある。セブンイレブンだってある。元気を出そう・・・。
さっそく日本に電話を掛けると、ネパールに同行する友人2人がリタイヤ、ふみちゃんだけが来るという。
飛行機を予約する時には、まさかこんな事になるとは誰も思っていなかったんだから仕方がないか・・・。
夜、ホテルのレストランで珈琲(もちネスカフェ)を飲みながら明日の一人作戦会議をする。
がんがんのカラオケで集中できず。同じ人がマイクを離さないでずーっと歌ってる。
その人とその人の家族だけが大喜び。ああ、平和だなあ、タイ。



9月23日(土)ダールパワー!!
 タイ航空は順調に高度をあげ、一路秋冬物期待の国ネパールへ!
私の隣には綺麗な白人のおばあちゃまが。隣り合った挨拶でにっこり笑った。でもそれきり話しかけては来ない。
スチュワーデスの問いかけにもろくすっぽ応えない。私の英語力を披露できなくて残念。
だって彼女はメキシコ人だったのだもの。「私も英語は下手です」と言っても手を横にぶんぶん振って笑っている。
語らなくとも、そのうち気分はうち解けてきて、彼女は孫を見るように、私はばあちゃんを見るように身振り手振りでお互いの面倒を見ようと手を出すので、おっとと手がぶつかりそうになったりした。
お昼の時、スチュワーデスが彼女の顔の真横なんかでコーラをプシューッと空けるもんだから、彼女の目の回りにかかってしまった。その時はスチュワーデスが謝ったりのやりとりをしていたので何も言わなかったのだけれど、しばらくして「目、大丈夫?」とゼスチャーで聞いてみた。しかし彼女の中ではその事件はとっくに終わっていたようでピンとこなかったらしく、しばらく私の顔を見て考えていた。ああ、と顔がひらめきに輝くと、肩にかけていたショールを口の方までするする持ち上げて潜り込んだ。そして「アイス」と言って笑った。私に「寒い?」と聞かれたと思ったらしい。彼女は知っている英語を総動員して、「寒いわ」に一番近い言葉を見つけたんだ。
一人なのかな、と心配していたら心配ご無用。
空港に降り立つと、ばらばらに座っていた家族がばあちゃんを取り囲み、あっという間の大家族になった。

ネパール入国のビザを持っていなかったので、ビザ発行とイミグレがセットになっているところに並ぶ。
後ろにいたアメリカ人の兄ちゃんが、ビザの用紙を持っていなくて慌てていた。
機内で配ってたのだが、彼の所に行くまでに無くなってしまったらしい。そこへ用紙を配っている職員がいたので貰ってあげた。それでも兄ちゃんは落ち着かず、もそもそ何か喋っていた。
私の番が回ってきて、面倒くさいので、パスポートに申請用紙、ビザ代を挟んでぽんと渡してよそ見していると、
「はい、ビザ代出して」と言われた。「え?ビザ代渡したでしょう?」
「なーに言ってんだ、早く出せ」「渡したでしょう?」「早く出しなさい!」周囲は騒然。
「あなたここにいれたでしょう、私のお金、これ、これが私の30ドルでしょう。私は、全部挟んで渡したでしょう」と、
お金を貯めている箱から30ドルを掴んで見せた。「これが私の!」もちろんお金なんて全部同じ顔だから当てずっぽう。
でも、それらしくまとまった額が箱に入っていたのだ。すると、「うーん・・・・、OK」。
へ?!OKなん?
これがインドだったら抱えられて事務所に監禁されるところだ。心臓が久しぶりに元気出してばくばく言ってる。
でも、私は足取りを堂々としたものに無理矢理してそこを通過するのだった。
ちょっと振り返ると、私の行動を学習していた後ろのアメリカ兄ちゃんが、しっかりと「これ、パスポート、これ、申請用紙、これ、ビザ代」とひとつずつ提示して見せていた。くうう、かっこわるい俺。
空港には、今日からお世話になる宿のスタッフが好意でお迎えに来てくれている予定。
タクシー呼び込みの声の中、宿の看板を持っている人達が見えた。車に乗り込みタメル地区へ。
車の中では簡単な名刺交換と、挨拶と世間話。
宿に着いてよくよく名刺を見ると、しまった!これはふみちゃんの彼氏じゃんか!
ビザ代の一件で、うわのそらだった私は、わざわざ迎えに来てくれた友人の彼氏を笑顔で無視してしまったのだ!
彼の勤め先に尋ねていったが、もう仕事に出ていていなかった。伝言を残して、街をぶらつく。
とはいえ、おっかなびっくりひよこくらいのスピードで歩く。ネパールでの買い付けは初めてだ。
インドによく似たこの香辛料の匂いと、目や鼻が痛くなるくらいの排気ガス。
迫力のある顔達がこっちを向いて笑っている。大丈夫、大丈夫すぐに馴れる。ここでがんばらなくてどうする!
今年の冬はここで決まるんだから!!
早速値段を聞いて回る。どんな物がいくらくらいか、ぎりぎりまで買わないで聞いて歩くしかない。
この国には定価という物がないんだから。毎日顔を出して、仲良くなろう。

日が暮れた頃、ふみちゃんがネパールに到着。先ほど無視してしまった彼と夕ご飯に迎えに来てくれた。「さっきはごめんね」ビザ代の一件を話し、うわのそらだったことを謝った。
彼スレシュさんは日本語がとても上手だ。仕事のためにこっちの日本語学校へ通ったという。
私の宿を安く予約してくれたのも、その学校で友達になったからということだった。だから宿も日本語でOKだ。
私の周りだけがそうなのではなく、とにかく街には日本語が溢れている。
呼び込みも、片言だったり、ぺらぺらだったり。看板は変なカタカナやひらがな。
ネパール人と日本人は気が合うのかどうなのか、ここに居着いてしまっている日本の女の子も少なくないようだ。
3人で暗がりの路地を歩き回って、小さなお店に(とは言え、屋外)到着。初めてのダルバートを食べる。
インドのターリーの様に、ワンプレートの上にお米や数種のおかずが並んでいる。それに豆の塩スープ。
それをご飯に掛けながら食べる。ダルはインドのダールと一緒できっと豆の事だな、と思った。
お米はさらさらとしていて、山のように盛ってあるのに、嘘みたく胃に収まる。かつてない程の白い山盛りを平らげた。
豆に元気を貰ってパワー全開!さて、いよいよ明日から歩くぞ〜


9月24日(日)リキシャとろとろ
 
お昼ご飯は、モモ。
香辛料がたくさん入った蒸し餃子のような物だ。これに特性のたれ、それからテールスープがセットになっている。
すんごーくうまい。スレシュさんがあんまり外食を信用していないので、普段無頓着な私もちょっと気を付けてしまう。
だってネパール人が気をつけろって言ってんだから怖いじゃなーい。そのスレシュさんが太鼓判を押すこのお店には観光客の姿はない。道も複雑だから一人では二度と行けないや。
仕事が残っているふみちゃんと分かれて、シュレスさんにオールドバザールなどを案内して貰う。
アルミや真鍮に装飾を施した日用品や、化繊の毛布、ナイロンのキラキラしたパンジャビードレスなどが
朽ちかけたレンガのビルに所狭しとぶら下がる。シュレスさんのバイクの後ろでこの光景をゆっくりと見ているのだが、
どんなにゆっくり走っても道が悪すぎて舌を噛みそう。
ベトナムでもバイクで移動するけど、走ること自体がつらい事はあんまりなかった。土埃を飛ばしながら、
ガタガタ道を走るのは結構大変!オフロードかいな、って感じ。シュレスさんがお友達のお店を紹介してくれた。
安い上にとても綺麗な商品。選ぶのもウキウキしてしまう。
この軽量で優しい柄のウールセーターは、きっとうちのお客さんが好きなタイプだ。そして買いすぎ。
バイクでは運べないんだな、これじゃ。
ベトナムでは相当量の荷物をバイクで運ぶ。それも道がいいからこそ出来たサーカスだったんだな、と痛感。
この道では人もろとも放り出されてしまう。そこでリキシャに乗るんです。
観光客にはうっとうしいリキシャも、ビジネスマンにとっては大事な味方。
たっぷり荷物とちっこい私を載せてリキシャはとろとろとろとろ走っていきます。前に日本人の背中が見えた。
追い越したいがこちらに気が付かないので「すいません、通してください」と声を掛けたときの、あのまなざし。
「ばっかじゃなーい、馬鹿買いて、調子こいてリキシャに乗ってる」って言ってた。恥ずかしいけど、仕方がない。
宿に戻ると、その様子にネパール人も笑った。「いやあ、買いましたなー」。
でも、きびすを返してさらなる獲物を取りに行くのです。
ナイロンでヘナヘナキラキラのパンジャビーでなく、良質のコットンとシックなろうけつ染めが素敵なパンジャビーを見つけたのだ。もちろんガイドブックにも載っていない。スレシュさんも口コミで知ったのだそうです。
はっきり言ってかなり日本人を意識したデザインと縫製。問題はデザインが本来のネパールと違っているのならつまらないけれど、完璧主義の日本人からだっての苦情を言われないぞ、という意気と愛が伝わってくる物です。従って結構な良いお値段。
予算内ではあまり量を買えないので、各サイズとデザインのサンプル(それだけでもかなりの量)と、お世話になっている英語の先生へのお土産に買ってみました。いろんな人に見て貰って、好評だったらもう一度買いに来るとしましょう。
さて、すっかり日も暮れて、スレシュさんと私は宿へ撤収。ふみちゃんを待ちます。
ところがふみちゃんは仕事のトラブルか帰ってきません。スレシュさんカリカリ。やっと戻ったときには夜の8時、ふみちゃんペコペコ。みんなのお腹もペコペコ。二人はいささか重いムードでしたが、私は腹を重くしたいだけ。早くご飯を・・・。
またダルバートを信じられないくらい山盛りに食べ大満足。二人もお腹と一緒に気持ちも収まったご様子。明日から一人なので、気を引き締めて頑張ろうと思う夜でありました。



9月25日(月)熱発
 
熱が出た・・・。うおーまじでー?
このまま寝ているわけにはいかない、ネパールの風邪にはネパールの薬。急いで薬局へ。
そしてパンを買って籠城の準備をしなければ。
寝るぞ〜寝るぞ〜一刻も早く完璧に治すには寝るしかないのじゃ〜!と思っても小心なので、
パン買うついでについ交渉もしてしまい、それも「具合が悪くて話が良くわからないから明日来る」と、じゃなんで来たの、みたいな訳の分からない事を3.4軒に話しつつやっと宿に到着。
仲良しのタンガ屋の兄ちゃんにも「元気?」と聞かれて「風邪引いた」とこたえ、どうやらみんなに甘えて歩いているようだ。しかし期待にむなしく誰も部屋を訪れ夜食などを持ってきてくれることもなく、ひとりパンを喰い、薬のみ、爆睡。
言わずもがな薬は強烈。
このままでは胃がおかしくなるはず。でも不安なので飲むのをやめられない。
間隔を6時間はあけた方が良いと思ったが、気が付くと4時間くらいで飲んじゃってる。ああ、明日の朝が怖い!


9月26日(火)お腹もパスタもゆるゆる
 やっぱり下った。薬の飲み過ぎ。と、言うことは薬が全部出てしまえば止まるのだ。
こんなの病気じゃないぞ〜残りは後2日しかないんだから!
話を付けておいたお店の半数から荷物を引き上げに行く。終わってみればもうふらふら。
何も食べる気がしなくて、一日過ごしてしまった。
夜もかなり遅くなって、やっぱり何か食べておかないと明日の最後の買い付けが出来ないと思い、一番近くのカフェへ行ってみる。もうネパールの夕食タイムには相当遅いらしく、私しかいない。ぽっつーん。
さてと、何にしようかな。噂の「どうやったらこんなパスタになるんだネパールのパスタ」を食べてみようと思う。
こっちに来たことのある友達は、こんなにゆるゆるでスパゲッティと言えるのか、と言っていたので、
かえって消化には良さそうだし。そう言えば昔インドで食べたパスタも、冷や麦のゆですぎみたいなやつだったなあ。
トッピングを3種類とソースが選べる。ピーマンとトマト、ロースとしたタマネギをトマトソースで頼んでみた。
厨房ではパスタマシーンで、生のパスタを伸ばしているのが見えた。これはもしかしたらすごく美味しいんじゃない?
やって来たお皿はかなりの充実感。チーズがたっぷりと乗っていて、いい匂い。楽しみに一口食べると、濃〜い。
かなり濃い。で、やっぱり麺はゆるゆる。もともと食欲もなかったのでかなりの苦戦を強いられる。
格闘していると、遠くの方に何か指示をしているような、まだ年若だけどリーダーっぽい人がいるのが見えた。
ここには珈琲をたまに飲みに来ていたが、初めて見る顔だ。どうやら、このお店の持ち主らしい。
しばらくすると「如何ですか?」と彼が近づいてきた。
「そうですね、正直言うとちょっと濃いです。麺は柔らかすぎると思います。美味しい、と言う人はいると思いますが、私は風邪を引いているので余計に濃く感じるのかも知れませんね。ごめんなさい」と私は言った。
かなり率直に言ってしまった。
彼は気分を害することもなく、いろいろと質問をしてきて、しばらくパスタの話をしていた。ところどころ日本語が混じるので、「日本語が上手ですね」と言うと、実は何年か日本で働いていたんだという。それは工場での単純作業で、かなりきつい仕事だったようだ。「みんなはこんな仕事、ちっとも良くないと言ったけど、僕は全然嫌いじゃなかったよ。だってそうしていれば、お金を貰えるし、気を付けて使わないようにして、いっぱいネパールに持って帰ってきたんだ」と笑った。
「それで、このカフェを開いたのね?」
「そうだよ。ずっとこういうお洒落なカフェが僕の夢だったんだ」と言っていた。
パスタはいまいちだけど、確かにお店はお洒落で素敵だ。
外国人目当てのこのお店が、これから観光客が少なくなると思われる同時多発テロの後で、どうんな風になってしまうか心配だけど、ここまで苦労してがんばってきたんだから、何とか生き残って貰いたいものだ。
お店を大事そうに、嬉しそうに眺めている彼を見ていると、無駄遣いをしないで必死に暮らした日本での生活が忍ばれる。

日本が日本である以上、出稼ぎの外国人はこれからも増えると思われる中で、見えない線の向こう側に彼らを置いて眺めているだけというやり方にもそのうち無理が出てくる。アメリカとメキシコの国境。不法越境してくるメキシコ人を厳しく取り締まる一方で、その不法滞在するメキシコ人がいないとアメリカ経済は成り立たないと言われている。アメリカ人が失業したってやりたくない「仕事」がたくさんあるのだ。メキシコ人はそれをやってくれる。そして、そのメキシコ人の母国への送金がメキシコ経済を支えている。
そうなると、表向きとは裏腹にすでに固定されたバランスとなって政府も黙認するしかない。日本もそう。
私たちの社会が円滑に動いているように見えるその歯車の中には、必ずパテのようにその隙間を埋めている人たちがいる。そう言う事実を隠蔽して、認識せず、自分たちだけでうまく自立してやっているって思い込んでる日本人。
どういう顔して彼らと出会っているだろうか。
日本人の意識一つで、もう少しうまくやっていける方法はあると思うんだけど。
日本で働く彼らが、カフェのオーナーのように無事に家族の元へ帰れますように。
出来れば心傷つくことなく。なんて考える夜でした。


9月27日(水)とにかく一安心
 なんにも観光してない。
ああ、風邪を引いたのが運の尽きだったか・・・。諦めるな!観光した証拠をカメラに収めるべく、スワヤンブナートに行くことにした。昨日、あそこには夕方行った方が良いよ、暑くてかなわん、とみんなに言われたにもかかわらず、私は10時に出発。
時間がないからタクシーでブー。こんなに肌寒いのに、なんで暑いの?と疑問を持った私を乗せ、タクシーは砂埃とともにぐるぐるぐるぐる山を登る
。ついてびっくり。しまった。ここって階段で有名だったんじゃない?!
とぼとぼ登ればいつか着くさ、と登り始めて気が付いた。「あ、暑い」。ふー、ふー、と息が荒くなるのを聞かれないように、口元に笑みすら浮かべて登っていくが、物売りにもノーアンサー。やっと着いたと思ったら、拝観料を払えと言われて、とうとう「フー」とでかく息んでしまった。拝観料を払う手が震え・・・体力なさすぎやん。
目玉の絵が描かれた寺院。意外何もありません。
そして、暑い・・・、このソーラーパワーで電気起こそうよ。
ガスった街をぼーっと見下ろしてるネパール人の背中を写真に撮ったり、鳩や猿を撮ったりしたら、
もう何もやることが無くなってしまった。
「・・・降りようかな」とぼとぼ、の一歩目が異様に怖かった。石段の角が削れて、下り方向に傾斜してしまっているのだ。
しっかりと手すりに掴まりおばあちゃん以下のスピードで降りていく。すっかり筋肉痛。
一難去ってまた一難。悪そうなタクシーの運転手が激しい客引き合戦を展開中。
すると手を振る男が一人。あ、さっきのタクシーのおっちゃん!
「さっきと同じ値段で良い?」「OK」って事で引き返して貰う。後から友人に聞いた話では、階段を上らなくて良いコースもあったそうだ。このおっちゃん、いい人に思えたが、帰りも確実に私をゲットでき、あんまり遠くない階段側に車を着けたんだな。どうりで、最後はあと20mばっかし走らないで、「後は歩いて行け」と私を降ろしたわよ。
「何処行ってきたの?早かったね」とタンカ屋のにいちゃん。「観光」と言ったわたしにいぶかしげだ。
やれやれ観光も済んだし、ネパールでの買い付けも今日で最後。残る荷物の引き上げをし、後は送るだけだ。
ふみちゃんと、スレシュさんも親戚回りからから戻ってきてくれた。
発送が済んだら、スレシュさんの手料理をご馳走してくれるって!はやる気持ちで宿下階のブティックへ行ってみる。
ここのオーナーがお友達のカーゴ屋さんに話をつけてくれる事になっている。昨日約束したんだ。
ところが・・・出かけている?!。しかも、帰ってくるかどうかわからない・・・だって。
ああ、スワヤンブナートに行く前に、声掛けようか迷ったんだよなあ・・・念を押してから出かけりゃ良かった!
しばらく待ってみたが、気が気じゃなくて携帯に電話かけて貰った。「今、どこにいるの?今日荷物出すんだよ!」
と言うと「あー、今そっちに向かってる、後10分くらい」と言い、20分後くらいにわっさわっさと帰ってきた。
カーゴ屋さんもやってきて、リキシャを使って大移動だ。あー良かった(泣)。
スレシュさんは時間が遅くなるとお買い物が出来なくなると言って、先に帰っていった。ふみちゃんが一緒に来てくれて、
二人で箱詰めを見守ることにした。「I am packing master!」と、さっきから豆ばっか食べてた呑気な兄ちゃんが腕まくりし、巨大なビニールに衣類を詰め込んでいく。詰めながらもう一度、品数を正確にチェックする。
兄ちゃんはバレンチノと書いたジーンズとベストを着ていた。
もちろん、バッタもんよ。しかしその着こなしは、胸をちらりとはだけさせセクシー。かなりのお洒落自慢と見た。
「素敵!」と言うと「いやあ!」と、すごく照れてたがちょー嬉しそう。ますます腕まくりなのだった。
巨大な荷物が出来上がり一同唖然。予想を上回る重量だった。お金足りるかな・・・?!
契約書類を書くのに、またまた時間が掛かりそうだったので、申し訳ないながらふみちゃんに両替してきて貰う。
ああでもない、こうでもないと言い合いながら、なんとか書類も完成。
かなりの金額を支払いつつ、もう騙されてても疲れて私は意識不明。それ!こうしちゃいらんない!
とにかくおしっこをして、準備万端、タクシーでスレシュさん家へGo。
車はカトマンドゥの郊外に向かっているのだろう、だんだん人気が少なくなり、のどかな雰囲気に包まれていく。
夕暮れと共に立派なアパートに到着。部屋とキッチン、トイレが完全なセパレートになっていて、コンクリの廊下を外履きで移動するようになっている。だから寝室は1つだけどすごく解放感があるんだ。窓からキッチンを見る事が出来るから、お料理している人と離ればなれになっているという感じもない。すごく感心。
お料理が出来るまでの間、すっかり日の暮れたご近所を散策。お水を買ったり、トイレットペーパー、ビスケットなんかを買う。子供の時に、日が暮れてから花火を買いに行った時みたいな気持ちになる。
こうやって見回してみると、ネパールの1件家は結構お洒落で、モスク風だったり、ヨーロピアンだったり、夜見ると特におもちゃっぽくてなんだかとてもかわいい。ぷらぷらして戻ると、そろそろいい匂いが立ちこめてきている。
今日のメニューは、豚を煮込んだ物と、ほうれん草のダルバート。ダルバートの豆スープがうまい。豚もうまーい。
噂には聞いていたが、確かにどのお店の物よりもうまい。ぜったいうまい。
信じられないくらい食べて、その後はハーブティーを飲みながらいろいろと今後の話などをした。
一日も早く二人が一緒に暮らせたら良いね。ふみちゃんがネパールに来ると税金などの面で苦労が出るそうで、当面スレシュさんが日本に来ることになる。こののんびりした牧歌的な人が、東京に合うかどうか非常に心配だ。山の代わりにビルに登っちまうんじゃないか?タクシーで帰るというのに、律儀なスレシュさんはふみちゃんを残してバイクで送ってくれるという。
ありがたいんだけど、ネパールのこのがたがた道をノーヘルで夜は、かなり怖い。実際・・・細かく書くのが憚られるくらい怖かった!心の中で「きえー」「きえーっ」と連呼。スレシュさん自身はつねにまじめ超安全運転の人だから、それは心配ないんだけど!あの道で後ろに乗るのは今後訓練が必要だわ。がんばるぞ(どうやって)



9月28日(木)違いのわかる男
ばたばたしてただけの、ネパールだったような気がするなあ。今日はもうバンコクへ戻る。
荷物をまとめて、挨拶を済ませ、何故か行きずりの人がタクシーの交渉をしてくれ、一路空港へ。
ほこりっぽい空港はがらんとしていて、出国税を払うところもよく解らず、とにかく列に並ぶ。
前の方から、トラブルのようなやりとりが聞こえてきた。日本の男の子が困っている。周りも困った顔だ。
後ろの方からで、ちと恥ずかしかったが「どうしたの?」と聞くと、重量オーバーで搾られ中らしい。
「もし、成田までオーバー分を引き受けてくれる人がいれば、通してやる」と、タイ航空は言った。
荷物はエアカーゴで全部送る手はずにしていたので、私はほぼ手ぶらだった。
どうぞお使いなさいな〜と申し出たが、残念なことに私の行き先はバンコクなのだ。
タイ航空はあくまでも、成田まで一緒のスケジュールでなければ駄目だという。
別に、バンコクからはまた違う人だっていいじゃないの。荷物を預かる以上、そうはいかないのか・・・。
「誰か、探してみます」と彼が言うので、「がんばってね」と、私はまだ支払っていなかった出国税を払いにその場を後にした。人の世話を焼いてる場合かい、段取りを間違えて出国税を払わないで怒られてやり直しだい。
再び列に戻ると、まだ彼がうろうろしている。「どう?」と声を掛けた。
私はいつだって、帰りの荷物はもの凄い量だ。それが私の仕事だから。いつかこういうトラブルに遭遇するのは、むしろ自分の方だと思っている。誰の問題にも首を突っ込むお節介だったり、天使のようないい人だってわけでもないが、過重トラブルとは、とても人ごととは思えない。そして、私はとても暇だった。
彼は山岳家で、いつも同じ荷物で移動しているのだが、過重でクレームを受けるなんて事は今までなかったそうだ。
だいいち、総重量が50kgもあったらここまで担いでこられません、と言う。相手が言うほど荷物は重くない思います・・・、と。確かにそうだ。とにかく、もう一回荷物を計り直させるとか、整理をしていらないもんとか置いていっちゃえばどうか、とも提案したけど、敵もさるもの、荷物はがっちり取り上げられて、戻さない、と宣言されたらしい。
とにかく過重分300ドル払え!だそうだ。300ドル?!
驚いて話を聞いているその間も、おっかない顔してカウンターのおっさんがこっちを見ている。
手続きの時、おっさんは出国税支払い済みのタグをなくしてしまうと言うチョンボをしたんだって。
で、彼がその事を指摘したら、おっさんはとたんにキーッカリカリ状態になってしまったんだと。
あーこう言うときこそ、袖の下って必要なの?と思うが、そんな事して、もし今怒っているおっさんのプライドを更に傷つけ、より怒られたらと思うと・・・もう機を逸している。成田に向かう日本人を二人で探す。関空へ向かうバックパッカーの子や、バンコクへ行くカップルたち、旅は道連れ世は情け、みんな心配をしてくれるけど、本当にびっくりするくらい成田まで行く人がいないのだ。おおかたバンコクか関空だ。年輩の男性が「大使館へ電話しなさい」と電話番号をくれる。でも、大使館に電話したとして、具体的に何かをしてくれるまでには飛行機は出てしまうだろうし。リアリティがないよなあ。思案する・・・。
もしかしたら、カウンターのおっさんも、交渉するのがケンカ相手の彼だから引くに引けず、意地を張り続けているのでは・・・と思い、私がカウンターに行って「彼の荷物を一度戻してくれませんか?」と言ってみた。すると、おっさんは仕方なさそうに、「ヤマダ!ヤマダ!」と彼を呼びはじめた。「君、山田君?呼んでる呼んでる」と言うとぴゅーっと飛んできた。そう言えば、名前も聞いていなかった。彼山田君って言うのか。おっさんっは、突然手際よく彼のブッキングをし始めた。なんでかわかんないけどやった!我々は勝利の笑みを抑えつつ、下の方でガッツポーズをした。「ノープロブレム?」と聞くと、ノープロブレムだという。が、しかし・・・「ありがとうございました。助かりました」等と言っていると、突然荷物の一部がどーんと目の前に置かれた。「もう時間がないから、重量分だけ預かった。これは重量オーバー分だから、自分で送り返せ」と言う。「は?」「ノープロブレムって言ったじゃない!」「そう、ヤマダはノープロブレム。この荷物はプロブレム。早く事務所に行って300ドル払うか、どうにかしなさい。ヤマダは早く乗れ、でも、とにかくこの荷物は乗れません」だそうだ。
なんだ、なんだ。
タイ航空の社員が事務所に誘おうとする。私たちはゆっくりと移動しながら考えた。なんとなく、立ち止まってみたりして、後ろを振り返ってみたりして。おっさん、こっちを激しく見てる。「うーん・・・そうだ、山田君、なにか余分なバッグとか持ってないの?」
そうだよ、当初の目的通り、荷物は戻って来たんじゃない。展開的には進歩してるんだ。
「あ、あるかも!」いい感じのスポーツバック発見。
リュックの荷物をそこへ分けて入れ直す。するとどうでしょう。持ち込み可能な大きさの荷物が3つ出来ました。
これは何と言っても1個は私の物だと言い張ればいいのです。これまたいつも私は荷物を機内に預けたりしないのだけど、たまたま預けていて手ぶらだったんですね〜。大きなリュックとスポーツバッグといういでたちは目立つので、私が大きなリュックをひとつ。彼は中型のスポーツバッグを2つ持つことにした。ちょっと無理矢理だけど準備OK。
私たちがぐずぐずしているので、おっさんも自分の仕事に視線を戻している。今のうち!すたこらーっと審査ゲートに向かって歩き走りした。出国審査さえ済んでしまえば、誰も追いかけては来られない!その時「ナマステー」と警備員が呼び止めた。
ひゃっと毛が立ったが、何事もない顔で「ナマステー」と言うと「何人ですか?」「日本人アリガトウ」だそうだ。
ああ良かった。それから階段を駆け上がり、他人のフリをして別々に出国審査を受けた。なんとか無事に通過。
さっき、大使館の電話番号を教えてくれたおじちゃんが通過した私に気が付くと、喜んで近づいて来た。
「神様の国で、あなたは良いことをした」と誉めてくれた。
が、しかし、まだまだ。次に待ち受けるのは荷物検査だ。
この時、さっきまで他人のフリをしていた山田君が突然、荷物を交換しましょう、そっちはヤバイから〜と検査官の前で荷物を交換していった。それってすごく怪しいがられやしませんか!
女子は別の列に並び、身体検査を受けなければならない。まあ、実状は、ついたての中でかわいいおねえちゃんと「ナマステは、日本語でなんて言うの?」キャッキャなんて会話を交わすだけのものだ。荷物検査はテロの事もあって念入りに開封された。
バッグからは「ビオレ男の洗顔」やら「山の生活を共にしたパンツ」など、続々と男らしい物が出てくる。
検査官それをつまんで「これは・・・あなたの?」と・・・、「いやーん、彼氏のよー」と頬を赤らめ応えておいた。
なにはともあれ、とにもかくにも、全行程クリア。
やっと会えた愛しい飛行機の翼〜。すぐに、山田君も搭乗ゲートに入ってきた。きゃーっと喜ぼうとしてびっくり。
山田君のすぐ後から、我々を事務所に連れて行こうとしたタイ航空の職員が入って来るではないか!
眼がばっちり合ってしまった。
「荷物・・・どうした?」「分けて持ち込めるようにしたの。これは、私の」とバッグを指さすと「ふふん」と彼は鼻で笑った。そして、それ以上追求されることはもはやなかった。
山田君のリュックの中には専門的な山岳グッズがたくさん入っていた。説明を求められたら、私が困るだろうと思って荷物を突然交換したんだそうだ。すみませんでした、と、ここでやっと改めてお互い自己紹介をした。
遠くから見守ってくれていた日本人達も集まってくる。
「いやあ!良かった。災難でした!」山田君は現役の東大山岳部。なんと、次のチョモランマ制覇で野口健の最年少記録を塗り替えるのだそうだ。「ノグチケン?」一瞬解らなかった私。
他の日本人が「あー、山のゴミを拾ってくる人ですね」とか「違いのわかる男だ」とか言うのでやっとわかる。「じゃあ、山田君記録抜いたら、ネスカフェのCMに出ちゃうのね〜」「ダバダー」とかふざける日本人集団。笑う山田君の鼻のアタマや唇は凍傷で皮がずるむけ、山の厳しさが忍ばれた。機内ではお互いの席が遠かったので、このまま山田君とはお別れになった。
隣の席の関空行きの子に「もし山田君と会えたら、次の飛行機はみんな成田行きなんだから、安心して荷物シェアして貰えって言っといて」と、伝言をし、私は安心してバンコクの空港を出た。



9月29日(金)〜10月1日(日)無理矢理最終回とにかく最終回

 
買付けしていると、馴れたところにいたいもので、あまり宿に対して冒険心も湧かない。結局妥協しながら同じ所にいたりする。でも、本当はベストの所があれば言うことないので、隣そのまた隣、と通りを制覇していくかっこうになる。ある日さよならを言って出ていった人が、まだ辺りをうろうろしているので、宿の人たちはちょっといぶかしそうだ。「うーん、視線が痛いねえ」と思いつつ、また通りで宿探し。でも、今日はネパールで引いた風邪がまだ心なし喉に残っていて体力に自信がなかったんで、とっととゲストハウスを決めた。
夜、晩ご飯を食べて戻るとお隣の部屋の入り口で、なにやら鍵を開けようと奮闘している二人組がいる。日本人の男の子達だった。「こんばんは」と言ってみると。「あ、こんばんは、どうぞ宜しくお願いします」ときちんと挨拶をしてきた。
お、いい子だな、とお姉さんはご満悦。
翌日の夕方、買い付けから戻ると、部屋の入り口に置いてあるデスクで、かたわれの男の子が手紙を書いていた。
何気なく話し始めると、結構盛り上がってしまい、じゃ、飲みに行こうよ(隣のホテルのテラスだけど、それに私はジュースだけど)と言うことになり、爆睡している相方にメモを残して出かけた。この、綺麗な顔立ちに鼻ピアスが似合う彼は山田君。
また、山田君である。
今度の山田君はバンドマンで、良い線いったバンドが解散して行くあてもなくなんとなく、相方に誘われて旅に出てきた。
後から眠そうに参戦してきたのは、バックパッカーやる気満々、沢木耕太郎に触発されて行けるところまで行こうというジュン君だ。これまたかなりの男前。このホテルには前回の買い付け日記にも登場したラテさんが住んでいるので、彼のボトルを拝借(返さないけど)して、貧乏な二人に飲んで貰った。お姉さんがしてあげられることはその位なのよ。
当のラテさんは、なんだか綺麗な日本のお嬢さんと出かけていったので、空にしてしまいましょう。
盛り上がってチェキなどで写真なぞも撮った。ノリがヤングである。
夜も更け小腹が減ったので、屋台にそばを食いに出かけたが生憎閉店。
で、セブンイレブンでカップラーメンを作ってみる。買ってから、お湯を入れて貰う日本と違って、お湯入れちゃってからレジに持っていくので、熱い。あつつつつつと言いながら、宿に帰ってみんなで食べた。じゃあ、お休み!と元気に各自部屋へひきあげたのだが、お馬鹿な私は彼らの部屋の鍵まで持って帰ってきてしまっているではありませんか。それも風呂を出てから気が付いた。多分今行ってもベロベロで出てこないだろう・・・と思い、戸口に手紙を挟んで眠ったのだった。明朝、先に起きた方が声を掛ければ良いんだからな。そしてやっぱり予想通り私の方が早く起きたのだな。ちょっと待ってみるけど、コトリとも言わずに眠っているようなので、仕方ない、たたき起こして鍵を渡して買い付けに出た。ジュン君は、何が起きているのか理解に難そうだったけど、多分昼頃には理解できでしょう。
近頃、必ず一日に数度激しいスコールがやってくる。市場を回り終わった頃、やはり雨が降り始めて、慌ててBTSに乗り込んだ。デパートの中を通って宿まで帰ろうと思ったら、なななんと、迷ってしまった。時折忘れてしまうのだが、こんな仕事をしているくせに私はすごい方向音痴なのだ。デパートって四角いだけなのに、出たい出口に出られない。しょうがないからお茶したりして、気を落ち着かせてまたトライ。何度も同じ所を汚い格好でうろうろしていて恥ずかしったらありゃしない。結局、またBTSに乗って(ひと駅なのに)来たとおりに帰り直した。なさけな。情けないのはいいんだけど、大汗をかいた後、雨にあたって、超寒いクーラーの中にずっといたら、治りかけてた風邪が再発。どんどん熱が上がっていくみたいだ。なじみの食堂で、辛いのを一発ぶち込んで、強烈な現地風邪薬を飲んで寝た。
 翌朝は、いくぶん気分が良かったけど、まだだるさが残っていて、とても市場を回ることが出来ない。うつらうつらしているうちに、山田君達ともすれ違ったようだし、スペインに旅行へ行くと言ってたラテさんにもお礼を言うタイミングを逸し、そのまま消えてしまった(消えたのは私の方だったんだろうけど)。
とにかく、不義理は次の縁で解消と言うことにして、尻つぼみのまま秋冬の買い付けは終了した。

この日の夕方には友人がやってきて、明日から念願のリゾートへ出かける計画なのだ。友人はお嬢なので、もちっとグレードの高いところへ動く。テラスでお茶していると、タクシーとケンカしながらお嬢が降りてきた。このアル中の女との豪華珍道中は、筆舌に難い体験だったので、執筆の方はやめておきます。多分、これ読んでるからね。


もうけっこう
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